2015年11月21日土曜日

【ノアイレス】‐BAR‐⑧

ケイは右手で真っ赤なネクタイを緩めながら、左手はキラリと光る何かを掴もうとしていた。
エマは興奮したような笑みを浮かべて私を見ている。

彼らは……、何をしようとしているんだ?
私を……、殺すってことなのか?
そんなこと、あるはずない。

そんな非現実的なことが、自分の身に起こるはずがないじゃないか。

そう思っていたんだ。




おかしいだろう?

予測もつかない何かというのは、必ず日常の中に降ってくるのに。
手のひらを反すように、日常が非日常へと瞬時に変わることだってあるというのに。

それでも、あの時の私は、目の前で起きている現実を、現実として認めようとはしなかった。

突発的とも思える事件や事故は、世界中で毎日のように起きている。
悲しみを込めた口調が事件を伝え、涙と、怒りと、憤りを映し出す映像が流れている。

他人を攻撃することに快楽を覚える者だっているだろう。
攻撃して踏みつぶし、高笑いをしている者も多い世の中だ。
血を好み、悲痛に歪んでいく顔から喜びを得る者だっているかもしれない。

そして、自分が大切にしていた者たちが、そんな猟奇的な性癖を隠していたとしても、全く不思議ではないはずなのに。

私は逃げようと思わなかった。
そんなこととは無関係だと思っていたんだ。
席を立ち、駆け出そうとはしなかった。

彼らは私のことを馬鹿にして、高笑いした挙句に、おかしな遊びを始めたんだと思っていたんだよ。

でも、違った。

真っ赤なネクタイを左手に持ち替えて、ケイが静かに近づいてきたんだ。
笑みを浮かべた彼の顔が、どんどん近づいてくる。

「なにをしようっていうんだ。もう、悪ふざけはやめろよ」

蔑みの視線と腹立たしさを含んだ私の声は、ほんの少しだけかすれていた。

口角を上げながら近づいてきた彼は、深緋色のネクタイで私の目を塞ぎ、手足も、布のような何かで縛っていった。首筋には冷たい何かを当てられて、そして、彼は私に恐怖を運んできたんだ。



「あなたが望んだんですよ? 滅べばいい……とね」

「その望み、叶えてあげるわ」

静かに言い放たれた彼らの言葉は、私の恐怖を更に煽っていった。

人はね、強い恐怖を受けてしまうと、全ての感覚がおかしくなってしまうんだ。

地についているはずの足は、地面の硬さを伝えない。
現実を見ているはずの目は、はっきりとした色を伝えてこない。
激しい心臓の鼓動は周囲の音をかき消して、臭いを感じるはずの鼻は空気すら吸い込めない。

萎縮してしまった自分の体は、自分が思った通りには動かない。
石膏か何かのように固まって、強がるだけで精いっぱいだった。

「一体どういうつもりだ? もう終わりにしろよ! やり過ぎだ!」

逃げ出さなかった後悔と、彼らへの不信と怒りと恐怖と、そして激しく打つ心臓の音が私を支配していく。

冷たい血が全身を駆け巡り、感情が抑えられなくなっていく。
寒くもないのに全身が勝手に震えだし、私はカウンターチェアから転げ落ちてしまったんだ。

床に倒れた哀れな男は、そのままの姿で叫び続けた。
思いつく限りの罵声を怒りのままに、石を投げつけるように叫んでいたんだ。

どの位の間、そうしていただろう……。

次第に、怒りの声は哀れな呻きに変わっていったんだ。

そして私は……

……、諦めたんだよ。

度が過ぎる悪ふざけなのか、それとも彼らが狂気の持ち主なのか。
そんなもの、もうどちらでも良くなっていったんだ。

それどころか、悪ふざけでなければいいとさえ思い始めていた。

『ああ、これで終われるんだ』と、どこかでホッとしていたんだ。

日常的に受ける精神的な暴力と、先の見えない暗闇の中のトンネルを歩き続けていくことに、自分自身の限界を感じていたからね。

もう、どうでも良くなってしまったんだ。

静かになったBARに、エマのヒールの音が響いている。
衣擦れの音が近くで聞え、そして、彼女は私の耳元で囁いた。

「ねえ。あなたは、どうしたい?」

ネクタイの奥で薄っすらと開いた視界には、深緋色の一色だけが映っていた。




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